伝統の「雷鳥」はじめ、未だ長編製の列車が多く走る区間でもあります。 北陸特急関連の記念切符です。 ■北陸線特急 2004年5月23日追加 昭和48年の金沢日本海博を記念して発売された記念入場券です。 当時の北陸特急のラインナップです。 廃止されたり、名前は残っているものの運転区間や役割を変えたものもありますが、新幹線未開通区間のため、列車形態は現在まで比較的変わっていないともいえます。 30年以上前のため、さすがに車両はほとんど新しいものに替わってしまいましたが、それでも雷鳥系統等、一部には当時のものも使用されています。 ■雷鳥 昭和47年当時にして10往復と、運転本数を着実に増やしてきた「雷鳥」。 もちろん当時も485(481)系の運転でした。 但し、一部の列車は「白山」と共用で横川〜軽井沢勾配対応の489系も使われていました。 当時の「雷鳥」は、10往復ながらまだ「L特急」の仲間入りはしておらず、全車指定席。 湖西線開業前で米原経由、とはいえ「こだま」しか停車しない米原では新幹線の接続は余り便利ではなく、下り方面の接続も京都駅が設定されていました。 このため、新潟特急「北越」とあわせ、大阪からの北陸特急は長く新大阪通過の時代が続きました。 ■加越 新幹線博多開業にあわせて新設された米原始発の北陸特急「加越」。 当時としては短距離の特急で、編成も食堂車を含まない7両と、こじんまりとした感じの列車でした。 それまでの慣例を破り、米原に一部の「ひかり」が停車化。 新しく登場した「加越」も、大阪へも名古屋へも行かない新幹線接続だけを目的とした列車でした。 上り「加越1号」の富山始発は、それまでの「雷鳥」よりもずっと早い5時43分。 異例の早さは、新幹線接続で東京に直結のためでした。 当時は富山空港はジェット化されておらず、東京行きの飛行機の便もYS11が数便。 河川敷の空港は霧が出ると度々閉鎖。 しかも富山便は北アルプス上空を迂回して飛ぶため飛行距離が長く、やや不便でした。 ところで入場券の写真はボンネットタイプのクハですが、当初は「加越」編成にはショートノーズの200番台が集中的に運用されていました。
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