青森県の廃線跡、三者三様のの様子です。 尚、追加は下の方になります。最新の追加は2009年8月2日 最北の地、大間崎。 本州最北端、大間崎です。 クルマだけで行くことのできる北限の地です。 折角数十年ぶりにクルマで青森までやって来たわけですから、今回は鉄道とは無関係に、観光として大間崎を訪問することにしました。 ご覧のように観光地として整備されてはいますが、あくまで「本州」最北のためか、もうひとつ派手さに欠ける印象はぬぐえませんでした。 最北の地、大間崎。 大間崎の目の前、弁天島の灯台です。 この日の青森地方は最高のお天気。 雲ひとつない空に、青く透きとおったきれいな遠浅の海です。 どうも本州「最北端」という言葉が不似合いな、のどかな風景です。 いずれも穏やかな季節に訪れたせいか、宗谷岬、ノシャップ岬、更にはポルトガルのロカ岬など、最果ての岬という言葉から思い浮かべる情景とはかけ離れた景色ばかりです。 いつかそのうち一年で一番厳しい季節に、喜望峰でも訪問してみましょうか。 啄木、歌碑。 大間崎の公園一角に、歌人石川啄木の歌碑が建てられています。 啄木と言えば、ここ大間崎から津軽海峡を隔てて対岸の函館の地が有名で、こちらにも同じく歌碑が建てられていたのを見た覚えがあります。 いずれの施設も新しく、ごく最近整備がされたようです。 幻の大間鉄道。 さて、鉄道とは無関係の観光訪問、という気持ちではありましたが、実はここ大間には廃線跡(正確には工事中断のため開業に至らなかった未成線跡)があります。 しかも戦時下、相当に工事が進んでいたため、構造物の遺構があちこちに残されたままになっています。 なかでもここ、下風呂温泉では、遺構の一部が観光用に積極的に活用されていました。 アーチ橋跡。 さほど平地が広くない下風呂の町並み。 平地の山際をぐるりととり巻くように、長いアーチ橋が残されています。 鉄道跡は「鉄道アーチ橋メモリアルロード」として手入れされ、遊歩道と公園化されていました。 2009年6月7日追加 アーチ橋メモリアルロード。 風間浦村の集落山側、一段高い所を通るため、大間線でも一番長い連続アーチ橋が設けられていました。 遊歩道として活用されるために、橋脚のコンクリート部分は化粧され、空色の手すりが取り付けられ、本来の姿からはすっかり変わってしまいましたが、それでも道路から見上げると、鉄道廃線跡であることは一目瞭然です。 アーチ橋メモリアルロード。 長い廃線跡(未成線跡)ながら、歩道としてきちんと整備されているのはこの部分だけです。 散歩、というにはいささか短すぎる区間ではありますが、きちんと舗装され、簡単な休憩所も設けられています。 風間浦村漁港。 風間浦漁港を望む、駅を模った休憩所部分。ほんのわずかだけですが、観光の見栄え用にレールが埋め込まれています。 なだらかな海岸線、道路より山側の一段高い箇所に確保されていた用地。 開通していれば、海沿いの風光明媚な路線だったことでしょう。 風間村とアーチ橋。 長いアーチ橋跡は、こんな感じで補修整備されています。 写真奥手の部分に道路からの上り口があり、上の方の写真にあるイラスト看板が掲げられていました。 さほどの階段数ではなかったのですが、港を見下ろすと結構高い感じがします。 2009年6月14日追加 案内プレート。 アーチ橋の中央部分、石の台座に埋め込まれた銅板プレートです。 下の写真と合わせて2枚が設置されており、大間線(プレート・案内には大間鉄道と表記)の歴史と概要がかいつまんで記載されています。 案内プレート。 上の写真とペアの銅板プレートです。 恐山、大間崎といった観光地と近いわけですが、観光資源としてはローカルです。 遠方からのお客が立ち寄ることがあるのでしょうか。 ちなみに私の場合、今回は意識の上では「北の果て大間崎」がメインで、「大間線跡」はついで的訪問です。 メモリアルロード。 石畳に短いレール、二つの銅板石碑と休憩所(というより、小さな温泉の足湯です。)。 観光というより、近所に住んでいれば毎日の散歩コースに程よいくらいのアーチ橋跡メモリアルロードでした。 橋脚跡。 アーチ橋メモリアルロードからわずかに大間崎側に寄ったところにある橋脚跡です。 道路とさほど違わない高さのため、車の窓からも一目瞭然です。 しっかりした構造体ではありますが、さすがに戦時中から長い間放置されていただけに、コンクリートもかなり劣化が進んでいます。 橋脚跡。 文献によると、大間線の工事はかなり進捗率が高かったようです。 トンネルや橋脚・築堤や切り通しは、計画頓挫後66年が過ぎた今でもはっきりと確認することができます。 しかし中止に至った直接の原因である資材(鉄鋼)不足は深刻だったようで、鉄橋がかかっている部分を見ることはできません。 準備後または設置後に軍事用に供出されたものもあるのでしょうか。 トンネル跡。 すべて貫通していたはずのトンネルですが、現在では侵入防止のため、入口は全部写真のようにコンクリートで塞がれています。 用地は、集落では民家が建てられたところも多数。 しかしそれ以外は散歩道か、写真のように花や野菜畑に「有効活用」されたところも。 2009年6月21日追加 橋梁跡。 道路沿いにそびえ立つ、不思議な形の構造物。 何だこれは?と言いたくなりますが、事情を知っていさえすれば、どう見てもコンクリートの橋梁跡です。 これだけ残っている(というよりここまでしか造られなかった?)というのも不思議なものです。 橋梁跡。 反対側から見るとこんな感じです。 下をくぐるのは道路でこちら側が川ですから、橋梁というよりは、橋脚の一部と言った方がいいかもしれません。 全体像をイメージすれば違和感はないのですが、これだけがぽつんと建っている姿は何ともシュールです。 橋梁跡。 下風呂温泉から大畑寄りに移動、これまたアーチ橋跡です。 いらない部分をカットしたアングルにすると、しばらく待っていればそのうち気動車でも走ってくるのではないか、といった感じの風景です。 アーチ橋跡。 すぐ上の写真のアーチ橋、下風呂温泉のもの程ではありませんが、これまた結構長いアーチ橋です。 大間線で築堤や鉄橋ではなくアーチ橋が多用されているのは、狭い土地、短い工期、資材不足中での建設の影響でしょうか。 おかげで興味深い構造物の遺構が沢山残っているわけですが。 2009年6月28日追加 大畑駅跡(下北交通営業所)。 大畑駅跡です。 国鉄大畑線大畑駅から下北交通大畑駅へと変わり、現在は下北交通営業所になっています。 大畑駅跡、と書きましたが、国鉄時代からはリニューアルされており、今でも立派に現役の建物です。 大畑駅跡(下北交通営業所)。 鉄道駅からバス会社の営業所になりましたが、窓口は今でも使われています。 ホームにつながる改札口も残されており、窓とドアを開けさえすれば、今でも立派な鉄道駅です。 運賃表やたくさんのポスターからも、現役の「駅」であることがはっきりわかります。 大畑駅構内。 大畑駅構内です。 現在も線路が残されています。と言うより現在でも時々構内で、保存車両が運転されています。 本日は月1回の運転予定日ではないことは承知していたのですが、子供の日でもあり、もしかすると何かミニ行事でもやっていないか。 そんな淡い甘い期待は残念ながらかなわなかった、清閑な大畑駅構内でした。 2009年7月5日追加 大畑駅構内。 実際に今でも車両が運行されているため、廃線跡とは言いながら現役時代そのままの大畑駅です。 本来ならこの先構内を抜けてそこから市街地を巡り、遥か大間崎までレールが繋がる予定でした。 しかし夢はかなわず、大畑線自体も廃止されてしまいました。 写真奥手、線路が1本になりやや右にカーブしかけたところで敷地は途絶え、その向こう側にはごくごく普通の民家が建っていました。 大畑駅構内。 鉄道路線としては廃線ですが、構内で保存運転が行われるため、このポイントも腕木式信号機も現役のままです。 枕木と敷石に染み込んで乾ききっていない油が、現在でも稼動することを示しています。 奥の車庫の中には気動車が保存されているはずですが、残念ながら覗き込むことはできません。 ワイヤー。 腕木信号機用のワイヤーや滑車も、錆びることなくきちんと手入れがされ、張力がかかったままです。 今ではこんな設備もお目にかかることはなくなってしまいましたが。 信号機。 青い空を背景にして絵になる腕木式信号機。 これも現役ですが、さすがに塗装は少々傷んでいます。 まあ、各地で実際に稼動していたものも、せいぜいこんな程度でありましたが。 2009年7月12日追加 駅名標。 大畑駅ホームに残されている駅名標です。 現役時代の塗装そのままと見え、かなり傷んではいますが、駅本屋のすぐ横にあるためか、モップを干すのに有効活用されており、りっぱに現役で活躍?しているようです。 大畑駅構内。 大湊線の下北駅側から大畑駅構内に進入するあたりの風景です。 陸奥湾沿いの下北駅から下北半島を縦断して津軽海峡側の大畑へ。 大畑線はほぼ北向きに進んでいましたが、終点の大畑手前で向きを変え、最後は南西向きに駅に進入する線形でした。 大間線が開通していれば、さらにここから先、河口を迂回するように大畑川を渡り、大間に向かうはずでした。 大畑駅入口。 大畑駅構内外れから、廃線跡下北駅側を眺めたところです。(地図上の方向としては下北の方を全く向いていませんが。) 構内外れ、境界となる踏切までは今でも線路が敷かれたままで、レールを組んだ車止めまで設置されています。 2009年7月20日追加 踏切跡・大畑町市街。 大畑町市街外れの海岸近く、やや下北寄りに位置する踏切跡です。 大概の場合、廃止後はレールは早々に撤去されます。が、道路面に埋め込まれている踏切のレールは道路工事を伴うため、かなり後までそのまま見られることもよくあります。 分かりやすく探すのが手っ取り早い鉄道遺構ではあります。 踏切跡・大畑町市街。 上の写真の踏切。下北側から大畑駅側を眺めたところです。 二車線に十分余裕のある広い市道は、もちろん遮断機は撤去されていますが、レールやコンクリートはそのままでした。 踏切跡・大畑町市街。 踏切を通り過ぎて市街地に入り、進路をやや左に向けると終点大畑駅に到着です。 30年前に乗車した今となってはいささか怪しい記憶によると、松林のおだやかな海岸を走る大湊線からは一変し、ひたすら丘陵地帯を走ると言った感じの大畑線でした。 2009年7月12日追加 野辺地駅。 JR野辺地駅です。 かつてこの駅の外れ、このあたりに南部縦貫鉄道の列車が発着していました。 東北本線の野辺地駅本屋と反対側にあるホームは構内の外れという感じ。 防風林沿いに発車する列車はたった一両で、しかし東北本線旧線を利用したなだらかな線形の線路を、七戸に向けてゆっくり発車してゆきました。 西千曳駅付近。 旧西千曳駅付近です。 野辺地からこのあたりまでが旧東北本線の線路を活用しており、見るからに線形がよくしっかりした路盤でした。 西千曳駅はかつては東北本線の千曳駅で、当初は旧国鉄駅をそのまま使用していたようですが、後に若干七戸寄りに移設されました。 西千曳駅付近。 同じく旧西千曳駅付近です。 最初に訪問乗車したときは旧国鉄駅だったはずですが、なにぶん乗車して往復しただけですので、駅自体は全く記憶にありません。 変だなと思ったのは、その後クルマで訪問した時。 このときはすでに移設後の時期でしたが、(新)西千曳駅のやや野辺地寄りに駅のホーム跡らしきものがあり、線路が不自然にカーブしていました。 当時は十分に情報を持ち合わせていなかったので、貨物ホームの跡かな、くらいに思っていました。 坪川付近。 坪川付近の廃線跡です。 踏切横から、鉄橋を渡ってくる列車を撮影できる面白いポイントでした。 住宅が立ち並ぶような場所でなく、かつ正式廃止からまだ10年たっていないため、今でも南部縦貫鉄道跡は遺構をほぼ忠実にたどることができます。 坪川付近。 上の写真の反対向きは、中央の踏切左側で何度か写真を取ったように記憶しています。 今ほど木が茂っておらず、ちょうど携帯電話のアンテナがある付近にも楽に上がることができました。 それにしても、どこに行っても携帯基地局のアンテナだらけの昨今です。 坪川付近。 南部縦貫鉄道では少ない、やや長い鉄橋のひとつですが、橋桁だけは早々に撤去されてしまいました。 ほかにもいくつかあった鉄橋も同様でした。 2009年8月2日追加 七戸駅跡。 七戸駅です。建物も構内も現役当時ほぼそのままです。 かつては狭く集まった町並みというイメージの七戸でしたが、休止となる前には駅の向かいにショッピングセンターが出来、様変わりしていました。 さらに今回は、国道4号線七戸バイパスが部分開業しており、ちょうどこの駅前がバイパス終点へのアクセス道路になっているため、ゴールデンウィークでもありあっと驚く大混雑でした。 七戸バイパスが全通すれば解消することでしょうが。 レールバスまつり。 レールバス祭りです。 今回短い日程で青森までやって来たのは、久々に「動いているレールバス」を拝みたいと思ったからでした。 愛好会の方々が中心の保存活動ですが、毎年ゴールデンウィークに行われる構内運転は、地元の行事と一体化しています。 乗車券を買えば何度でも乗車できるため、時間待ちの列が途切れませんでした。 レールバスまつり。 「走っている」レールバスです。 定員は60名と標記されていますが、この日は1回30名程度に区切っていたようです。 しかし連続で運転されているため、少し待てば乗車できました。 どうせ構内だけの運転、と思っていましたが、加速・最高速度ともに予想以上の走りっぷりでした。 レールバスまつり。 2両のレールバスが並んでの展示です。 実際に運転して乗車できるのは前方(向こう側)の1両だけ。それでも屋外に2両並ぶと見ごたえがあります。 現役時代・運転休止直前の1997年ゴールデンウィークと全く変わらない、七戸駅構内でした。 尚、2009年の「レールバスまつり」訪問の写真は GALLERY 「南部縦貫鉄道」 に、現役時代の写真とともにアップします。 併せてご覧ください。
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